脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

王者の剣(2)

陳羅です。
こんにちは。


では早速、あらすじから。


決意を新たにしたものの、とりあえずは日々の仕事に戻らなければなりません。

そういえば、今日は内職で作ったムシロを問屋に納める日でした。
劉備は成果物のムシロの束を積んだ馬を引き、「カッポ、カッポ」と街へ向かいます。
でも、なんかムシロの量が少ないような・・・。

さて、取引も無事終わり、お菓子でも買おうと思って街をぶらついていると、立札に人が集まっています。
何でも黄巾党との戦いのため、兵を募るとのこと。
物思いにふけっていると、唐突に張飛が現れます。
立札をみて何を思ったか問いただす張飛に対し、始めは言葉を濁した劉備でしたが、しつこく食い下がられてついに自らの出自を打ち明けます。
そして、時期が来たら共に立ち上がることを約してわかれたのでした。


張飛は主と仰ぐべき人物を見つけたと歓喜し、関羽に知らせようと大急ぎで向かいます。

途中、門番が門を開けてくれないので、ちょっと蹴散らしたりしましたが、なんとか夜中に関羽の家につきました。
しかし関羽の反応はいまいちで、がっかりした張飛が居酒屋へ繰り出してやけ酒をあおっていると、突然抜き身(!見間違い!?)を持った兵士が居酒屋に踏み込んできました。
張飛を見つけて驚いた(じゃあなんで抜き身?)兵士達は彼をとらえようとしますが、激怒して暴れる張飛には歯が立たず、張飛は少なくとも4人を殺害(背中で『バキッ』が一人、顔面で『グシャ』が三人)、4人に重傷を負わせてしまいます。
そして、居酒屋の主人に劉備のもとへ向かうと告げると、さっそうと去って行ったのでした。


さて、以前に劉備が庶民でないことを話しましたが、ムシロを織って暮らしていたというのは本当の様です。
父が早くに亡くなり、貧乏をしていたためです。
しかし、やはり一族には裕福な人もいて、親戚のおじさんである劉元起がお金を出してくれたため、有名な儒者である盧植のもとで学ぶことができたのでした。


劉元起の妻は、夫に文句を言ったそうですが、劉備の資質を見抜いていた劉元起は取り合わなかったといいます。


次に、張飛が突破した城門について。

当時の中国の都市は、城壁に囲まれた城塞都市でした。
そのため、今でも中国語では都市のことを、「城市」といいます。
ところが、この作品自体は日本語で書かれていますので、城市ではないただの砦のことも城と言ったりしています。
ですから、この作品で単に城といった場合、「城市」のことを指すのか、ただの砦なのか文脈から判断する必要がありますね。


最後に、この回で初登場する関羽についてです。
関羽は張飛、簡雍、田豫らとともに、劉備の旗揚げ当初からの家来です。
当初は大将である劉備のボディガードのような役割だったようですが、戦場で経験を積み、のちには各勢力の高官らに高く評価される名将になります。
それでは、各地の声をご紹介しましょう。


程昱(テイイク):張飛の勇猛さは関羽に次ぎ、1人で1万の兵に匹敵する。
周瑜(シュウユ):張飛と関羽を従えれば大事業を成せる


あとあと出てきますが、二人はそれぞれ劉備の敵対勢力の高官で、敵である彼らにそれだけの評価をされていたということは、それだけ際立って有能な将軍だったのでしょう。
張飛と同様、彼も庶人の出身で、文化人の間の名声などというものを持たない彼らが、各地の名士にこれだけ高評価を受けるということは、異例のことだったのではないでしょうか?
マンガや小説の中では、一人で何人もの敵を倒したり、強い強いと評判の武将を簡単にやっつけたりと、わかりやすく強さを表現されていますが、実際には彼らはどのような活躍をしていたのかを、今後取り上げていけたらなと思います。

王者の剣(1)

みなさんこんばんは。
陳羅です。


それでは今日もあらすじから。。。


黄巾党騒ぎで一命を拾った劉備は予定通り涿(タク)県の自宅に帰ってきますが、どうも家の中ががらんとしていることに気が付きます。
母の話では、黄巾党との戦いのための増税により、差し押さえられたとのこと。
なぜか劉備は、増税に踏み切った領主に同情します。
根っから素直なのか、今度の一件でよほど黄巾党を深く恨んでいるのか・・・。
そのような状況にもかかわらず、劉備がお茶を差し出すと母は大喜びしますが、その後劉備の剣が伝家の名剣でなく普通の剣(張飛に名剣を差し出した時に交換してもらった)に代わっていることに気づき、劉備をとがめます。
劉備から剣を手放した経緯を聞いた母は激怒し、あろうことかもらったばかりのお茶を、池みたいなところに「チャッポー」と投げ捨ててしまいます。
ああ、このお茶のおかげで危うく死ぬところだったというのに・・・。
そこで劉備は母の口から衝撃の事実を聞くことになります。
何と、劉備は中山靖王劉勝の子孫であり、あの剣はその身分を示すものだというのです。
これまでこの事実を隠していたのは、この事実が明るみに出ると、劉備の命が狙われて危険だと思ったからとのこと。
この話を素直に信じた劉備は、今後は帝王の子として恥ずかしくない生き方をしようと心に決めたのでした。


なぜかこの話は妙に長く、これで半分ぐらいです。
これだけでも言いたいことはたくさんあるので、この話は2回に分けることにしましょう。


今回判明した劉備のご先祖、中山靖王劉勝とはどんな人だったのでしょうか?
まず、中山靖王についてですが、中山というのは国の名前で北京の近くです。
劉勝はその国の王で、靖王というのは諡(おくりな)です。


諡(おくりな)というのは皇帝や王、貴族などがなくなった後に、その人の功績や人柄から名付けられる戒名のようなものです。
当時の中国では、皇帝だけでなく王や貴族にも諡がされていましたが、現代日本でも天皇には諡があります。
先代の天皇のことを昭和天皇と呼ぶのは、昭和時代の天皇だからではなく、死後「昭和天皇」と諡されたからで、今の天皇のことを平成天皇とは呼ばないのです。
天皇は一人しかいないので、単に天皇といえば今の天皇を指すに決まっていますから、そんな風に固有名詞で呼ぶ必要はないのです。
もちろん失礼に当たりますので、絶対に裕仁とか明仁とか諱で呼んではいけません。
(過去の天皇と並んで話題にするときなど、どうしても必要な場合は今上天皇といいます。)


さて、劉勝が王であったということは、以前にお話しした通り皇族なのですが、どういう皇族かといえば、なんと漢の第6代皇帝である景帝の子です。
とするとなぜ劉備はこの中山靖王を先祖と称していたのでしょうか?
劉勝の父は景帝なのですから、景帝の子孫でもあるわけで、だったらそういえばよさそうなものです。


劉勝がさぞかし立派な人物だったのかと思えばとんでもない、酒と女におぼれ政治を試みない人物で、放蕩息子も良いところでした。
しかし都合の良いことに子どもが50人もいました。
そして彼の領地は劉備の故郷涿県からほど近い中山国・・・。


さて、劉備は本当に劉勝の子孫だったのでしょうか?
それは、読者の想像に任されています。
しかし、このような前提知識をもってこのシーンを読むと、自分の息子が皇帝の末裔だという妄想に取りつかれた母親と、母親の話を素直に信じてしまう息子の図に見えてきませんか?


【参考】中山国は多分この辺

張飛

どうもこんにちは。
陳羅です。


今日は第三話、「張飛」です。
ようやく三国志らしくなってきます。

さて、黄巾党の陣から脱出した劉備と芙蓉姫でしたが、すぐに追っ手に追いつかれてしまいます。
あの老僧の死はなんだったのか・・・。
まさに危機一髪というところに、突然領主の家臣であった張飛が現れ、追っ手を皆殺しにします。
張飛の強さに心を打たれた劉備は、礼として伝家の名剣を張飛に譲るのでした。
その後、張飛は芙蓉姫を連れて去っていきます。
(芙蓉姫は領主の娘なので、家臣であった張飛とは、もともと知り合いだったようです。)

内容が薄い・・・。
横山三国志の特徴として、張飛や関羽が立ち回るとそれだけでコマ数を食ってしまい、内容が薄くなる
特徴があります。

では今回は張飛という人物について。
張飛は、劉備と同じ涿郡の出身で、字は益徳です。
えっ、翼徳じゃないの?という人もいるかもしれませんが、正しくは益徳です。
しかし、なぜか三国志演義では翼徳とされているのです。
理由はよくわかりませんが、今後ももろもろの事情で名前を変えられてしまっている人物が出てきますから、何らかの事情があったのでしょう。

ちなみに、字(あざな)というのは、公式のニックネームみたいなもので、今後もたびたび出てきます。
本当は本名である諱(いみな)で人を呼ぶのは当時はとても失礼なことで、たとえば「張飛殿!」とか呼びかけることは実際には絶対にありません。
仲の良い人は字で呼び、そうでもない人は多分肩書で呼んだのでしょう。
肩書のない人はどう呼んだのかよく知りません。


さらに脱線しますが、皇帝などとても偉い人の諱は、字で書くことも憚られたようで、たとえば漢朝の初代皇帝の劉邦の諱である「邦」の字は、それ以前は一般的に国を表す言葉として使われていましたが、劉邦の時代以降「国」の字に置き換えられて現代につながっているのです。


それから、本名である諱を避ける風習は実はかつての日本にもあり、有名な話では西郷隆盛の本名にまつわるエピソードがあります。
明治維新の立役者である西郷隆盛ですが、普段は通称の吉之助と呼ばれていました。
あるとき、西郷の名前を友人が誤って彼の父の名で届け出てしまったことがきっかけで、隆盛が彼の名になったのですが、正しくは武雄でした。
友人すら、本名を知らなかったのですね。


張飛に戻りましょう。
張飛について、もう一つ言っておかなければならないことが、彼が庶民の出身であるということです。
「え?劉備も庶民出身でしょ?」という声が聞こえてきそうですが、劉備は庶民ではありません。(多分)
劉備は若いころ、有名な学者であり後に黄巾党との戦いで将として軍を率いた盧植を師として学問を学び、そのころの友人には後に漢の名門である袁術と組んで天下を伺うほどの勢いを持った公孫瓚(サン)がいたというほどですから、父が早くに亡くなって貧乏していたとはいえ、庶民ではなかったのです。
当時の中国では、庶人と士大夫との間に厳然たる身分差別があり、張飛は一生その差別に苦しみます。

ちょっと想像してみましょう。
劉備は後年、益州(今の四川省)に依って漢の皇帝を名乗ります。
張飛は車騎将軍・司隷校尉の地位に昇りました。
車騎将軍は軍人としての最高位で、司隷校尉は洛陽周辺の知事のような役割で、劉備は洛陽を領有していませんから名誉職ですが、それこそ臣下の中で最高級の待遇だったのです。

おまけに、娘が劉備の長男である劉禅と結婚し、外戚にもなりました。

それでも差別はやまないのです。
劉備の臣下には、荊州(今の湖北省)や益州出身の学者(=士大夫)が名を連ねており、彼らの中には劉巴のように公然と差別的な言動をする人もいました。

自分を差別する士大夫出身の群臣たち。

彼らを重用する士大夫出身の劉備。
そしてそんな群臣たちより上位に昇った庶人出身の自分。


東大を出た親友と一緒に会社を立ち上げて大成功したけれど、自分以外の経営陣や管理職はみんな有名大卒で、話も合わないし、何か見下されている感じがする。
現代的に言うとそんな感じでしょうか。
身分差別は自身の努力ではどうにもならない点で、さらに質が悪ですが。。。


まだまだ、書きたいことはたくさんありますが、今日はここまで。