脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

王者の剣(1)

みなさんこんばんは。
陳羅です。


それでは今日もあらすじから。。。


黄巾党騒ぎで一命を拾った劉備は予定通り涿(タク)県の自宅に帰ってきますが、どうも家の中ががらんとしていることに気が付きます。
母の話では、黄巾党との戦いのための増税により、差し押さえられたとのこと。
なぜか劉備は、増税に踏み切った領主に同情します。
根っから素直なのか、今度の一件でよほど黄巾党を深く恨んでいるのか・・・。
そのような状況にもかかわらず、劉備がお茶を差し出すと母は大喜びしますが、その後劉備の剣が伝家の名剣でなく普通の剣(張飛に名剣を差し出した時に交換してもらった)に代わっていることに気づき、劉備をとがめます。
劉備から剣を手放した経緯を聞いた母は激怒し、あろうことかもらったばかりのお茶を、池みたいなところに「チャッポー」と投げ捨ててしまいます。
ああ、このお茶のおかげで危うく死ぬところだったというのに・・・。
そこで劉備は母の口から衝撃の事実を聞くことになります。
何と、劉備は中山靖王劉勝の子孫であり、あの剣はその身分を示すものだというのです。
これまでこの事実を隠していたのは、この事実が明るみに出ると、劉備の命が狙われて危険だと思ったからとのこと。
この話を素直に信じた劉備は、今後は帝王の子として恥ずかしくない生き方をしようと心に決めたのでした。


なぜかこの話は妙に長く、これで半分ぐらいです。
これだけでも言いたいことはたくさんあるので、この話は2回に分けることにしましょう。


今回判明した劉備のご先祖、中山靖王劉勝とはどんな人だったのでしょうか?
まず、中山靖王についてですが、中山というのは国の名前で北京の近くです。
劉勝はその国の王で、靖王というのは諡(おくりな)です。


諡(おくりな)というのは皇帝や王、貴族などがなくなった後に、その人の功績や人柄から名付けられる戒名のようなものです。
当時の中国では、皇帝だけでなく王や貴族にも諡がされていましたが、現代日本でも天皇には諡があります。
先代の天皇のことを昭和天皇と呼ぶのは、昭和時代の天皇だからではなく、死後「昭和天皇」と諡されたからで、今の天皇のことを平成天皇とは呼ばないのです。
天皇は一人しかいないので、単に天皇といえば今の天皇を指すに決まっていますから、そんな風に固有名詞で呼ぶ必要はないのです。
もちろん失礼に当たりますので、絶対に裕仁とか明仁とか諱で呼んではいけません。
(過去の天皇と並んで話題にするときなど、どうしても必要な場合は今上天皇といいます。)


さて、劉勝が王であったということは、以前にお話しした通り皇族なのですが、どういう皇族かといえば、なんと漢の第6代皇帝である景帝の子です。
とするとなぜ劉備はこの中山靖王を先祖と称していたのでしょうか?
劉勝の父は景帝なのですから、景帝の子孫でもあるわけで、だったらそういえばよさそうなものです。


劉勝がさぞかし立派な人物だったのかと思えばとんでもない、酒と女におぼれ政治を試みない人物で、放蕩息子も良いところでした。
しかし都合の良いことに子どもが50人もいました。
そして彼の領地は劉備の故郷涿県からほど近い中山国・・・。


さて、劉備は本当に劉勝の子孫だったのでしょうか?
それは、読者の想像に任されています。
しかし、このような前提知識をもってこのシーンを読むと、自分の息子が皇帝の末裔だという妄想に取りつかれた母親と、母親の話を素直に信じてしまう息子の図に見えてきませんか?


【参考】中山国は多分この辺

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