脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

渡り鳥

みなさんこんばんは。
陳羅です。


それでは早速今日のあらすじから。


黄巾軍を夜襲により撃破した劉備たちでしたが、朱儁の司令部に呼び出され叱責されてしまいます。
理由は、敗走した潁川の黄巾軍部隊が、広宗の部隊に合流して盧植の部隊が苦戦に陥るためという、言いがかりじみたものでした。
直ちに広宗へ向かい、盧植を救援するよう命じる朱儁に対し、張飛は激怒しますが、劉備と関羽になだめられます。
翌日、広宗へ向かう劉備たち義勇軍の前に、囚人を連行する官軍部隊が現れます。
なんと、その囚人は広宗で官軍を率いているはずの盧植将軍だったのです。
事情を尋ねる劉備に対し、盧植は左豊卿への贈賄を断ったところ罪をでっち上げられたと語り、あろうことか漢帝国の滅亡を予言します。
張飛は盧植の救出を提案しますが、盧植は拒否し、そのまま連行されていったのでした。
劉備たちがさらに広宗へ向かって進んでいくと、官軍部隊が敗走してくるのに遭遇しました。
劉備はすかさず追撃している黄巾軍の側面に対し突撃を敢行し、これを撃退します。
官軍の新司令官である董卓将軍は劉備を呼び出して謝意を伝えますが、劉備が義勇軍であることを知ると、冷たくあしらいます。
再び激怒した張飛は、董卓を殺そうとしますが、関羽と劉備になだめられ、思いとどまるのでした。


【参考】今回の劉備の旅。潁川から広宗へとんぼ返り。また黄河を渡らなければ・・・。


まずは、逮捕された盧植のその後について。
そもそも、盧植が左豊に賄賂を贈らなかったために、罪をでっち上げられて免官されたというのは、史実の様です。
しかし、ともに黄巾軍と戦った同僚の将軍である皇甫嵩が彼の功績を高く評価したため、再び登用され、その後も元気に活躍しますので、ご安心ください。
まあ、横山三国志では二度と登場しませんが・・・。


次に董卓について。
董卓といえば、悪者の代名詞のような存在で、後々大騒ぎを引き起こしてくれるのですが、物語の中では今のところずいぶんと小物ぶりを発揮してしまっていますね。
どうせなら、曹操みたく有能ぶりを発揮させたうえで、悪の道に走らせた方が物語としては面白いと私は思います。どうせ作り話なんだし・・・。
でも、盧植の後任として赴任し、成果を上げられなかったというのは史実の様です。


彼は武勇に優れ、若いころは羌族(中国北西部の異民族)との戦いに明け暮れていたといいます。
しかし、漢族との戦いになれていなかったのか、黄巾軍には負けてしまいました。。。


また、彼は右手でも左手でも弓を使えたといいます。
だからどうしたといわれそうな技ですが、実は騎乗戦闘において重要なスキルなのです。
通常、右利きの人間は左手で弓を持ちます。
やってみればわかると思いますが、これだと体の右側へ矢を放つためには、よほど腰を柔軟に回せでもしない限り、体の向きを変える必要があります。
しかし、馬に乗っている場合、馬ごと向きを変えるのは大変ですし、まさか戦闘の最中に前後逆に乗り換えるなどという曲芸もできません。
しかし、どちらの手でも弓を扱うことができれば、馬の上から360度どの方向へも矢を放つことができるのです。


さて、騎乗戦闘の話が出てきたので、当時の馬具について、お話ししましょう。
そもそも中国人が馬に乗って戦うようになったのは、戦国時代の紀元前300年ごろ(三国志の時代の500年ほど前)趙の武霊王が胡服騎射を取り入れてからで、それ以前の機動兵力といえば馬車(戦車)が基本でした。
胡服とは異民族風の服装のことで、当時から北方異民族では騎射が行われていましたので、武霊王はそれを真似たのでした。
この当時の馬具は、現代の物と違い鐙がなかったと考えられています。
鐙(あぶみ)は、馬にまたがったとき、足を乗せる部分のことで、これがない状態で馬に乗るときは、両足で馬の腹を強く押さえつけないと、激しく揺れたときに簡単に落っこちてしまいますし、そうでなくてもお尻が相当痛くなります。
ですから、当時、馬に乗って戦闘を行うことは、かなりの熟練を必要とするプロの技で、当時の騎兵部隊は相当のエリート部隊であったといえるでしょう。
三国志演義にはかなりの規模の騎兵部隊が登場しますが、これは演義が執筆されたのが明の時代で、当時はすでに鐙が実用化されていたことが原因でしょう。
このように、演義の書かれた明時代と三国時代のギャップによる問題は、結構いろいろなところに出てきますので、気づいたら取り上げていこうと思います。

それでは、今日はここまで・・・。

ムラゴンでgoogleマップを載せる方法

こんにちは。
陳羅です。


今回は、三国志をちょっと離れて、ムラゴンにgoogleマップを載せる方法をご紹介します。
え?突然どうしたって?
先ほどガキンチョさんから、質問をもらったからですよ。


まずは地図を作ります。
googleマップにアクセスして目的の地図を表示します。

すると画面右下に変なマークが表示されます。

これをクリックすると・・・

こんなのが出てくるので、この
「地図を共有または埋め込む」
をクリックします。


すると、画面がこうなるので、

「地図を埋め込む」を選んでください。


画面がこのように変化すると思いますので、


このような内容になっていると思います。

これをムラゴンに貼り付ければよいのですが、このままだと、横幅が突き抜けてしまいます。
そこで、赤文字にしたところのwidth(横幅)とheight(高さ)を調節する必要があるのですが、ムラゴンではPCで見たときとスマートフォンで見たときで、記事部分の横幅が全然違いますので、どちらでもうまく見えるようにwidthは100%にすることをお勧めします。(100ではなく、100%ですよ!)
高さはそのままでも構いません。


修正した地図用のテキストはこんな感じです。


最後にこれを記事に張り付けるのですが、スマートフォンから投稿する場合には、画面の下の方にある「PC版はこちら」のボタンを押して、PC版の画面に切り替えます。
そして、記事を書くページを表示すると右上に「」というボタンがあると思います。

これを押すと、入力欄が全部HTMLのソースコードの状態になると思いますので、先ほど修正した地図用のテキストを目的の箇所に貼り付けて保存すればOKです。


それでは試しにやってみましょう。


いかがでしたでしょうか?
旅行記のブログなどつけている方は、ぜひお試しください。

火攻めの計

こんばんは。
三国志大好きおじさんの陳羅です。


それでは今日もあらすじから。


場面は広宗の官軍司令部に移ります。
盧植が三人の軍人達に戦況の説明をしていると、一人の兵士が入ってきて劉備の来訪を伝えます。
日々の忙しさのため劉備のことなどすっかり忘れていた盧植は、彼らを邪険に追い払おうとしますが、兵士にしつこく食い下がられて翻意し、会ってみることにします。
しかし劉備を一目見るや、彼がかつて教え子であった劉少年であることを悟り、驚喜するのでした。
こうして盧植の配下となり、黄巾軍との戦いを再開した劉備たちでしたが、黄巾軍は強く、また味方の官軍の士気は低調で、義勇兵の間にも疲れが広がっていました。
このような状況を憂えた張飛は、劉備に不満を訴えますが、関羽の巧みな対応により聞き流されてしまいます。
ちょうどそこへ、盧植が現れ、劉備に潁川へ向かい、皇甫嵩・朱雋の両将軍を救援するよう命じます。


広宗の現場に不満を持っていた劉備達は、内心大喜びで潁川へと向かったのでした。


潁川に到着した劉備は将軍の朱雋の閲兵を受けますが、兵士たちの貧弱な装備に朱雋は不満を抱きます。
しかし、なぜか朱雋は彼らをもっとも強力な敵の前面に配置したのでした。


配置についた劉備でしたが、早速その夜に総攻撃を敢行します。
彼らは敵陣に接近すると、たいまつを投げ込んで放火を行ったうえ、銅鑼を打ち鳴らしながら突撃するという意表を突いた行動をとります。
黄巾軍はなぜか油断していたうえ、劉備の奇抜な行動のためか大混乱をおこし、なぜか偶然現れた曹操率いる五千人の騎兵部隊にほとんどを討ち果たされてしまいます。
劉備と曹操は戦闘の最中に遭遇してともに勝どきを上げ、お互いの健闘を祈りつつ別れたのでした。


今回は、まず地図から。。。

【参考】今回の劉備の旅(広宗から潁川へ。徒歩12日ほどの道のり)


潁川というのは本来川の名前ですが、おそらく現在の臨潁県あたりのことと思われます。
だいぶ南にきましたね。当時の首都洛陽より南です。
あ、曹操が「洛陽から南下してきた」といっていましたから、あたり前ですね。。。


さて、今日は、まず嫌味な将軍、朱雋について。

マンガでは朱雋で統一されていますが、正しくは朱儁ですね。。。
そして、この嫌味な朱儁像というのは、実は例によって吉川栄治による創作で、歴史書である三国志はもちろん、本場中国の三国志演義においても立派な人物として描かれているのです。
主人公を引き立たせるためとは言え、劉備の師である盧植は立派な人物として描きながら、同じように頑張って戦った朱儁をこんな扱いにするとはひどいですね。
まあ、出番すらない皇甫嵩よりましかもしれませんが・・・。


朱儁は、楊州(現在の江蘇省。南京を含む地域)の出身で、劉備と同様父を早くに亡くし、母が内職をしていたといいます。
そして、親孝行者として評判だったためか、県長(小さい県の長官。県令が置かれない県に置かれた)によって推薦されて郡の役人として働き、徐々に出世していきます。
前にも言いましたが、当時は学問といえば儒学でしたから、親孝行というのは極めて重要で、それだけで登用の理由になりました(ただし士大夫に限る・・・。)
やがて、反乱が長引いていた交州(中国の最南部で一部は現在ベトナム領となっている)の刺史に抜擢され、軍を率いて反乱を鎮圧することに成功します。(あれ?刺史なのに軍を率いてますね・・・。)
これが178年、すなわち黄巾の乱が発生する6年前ですね。
劉備や盧植と違い、活躍の場は南の方が多かったようです。
黄巾の乱では、やはり中郎将として軍を率いて戦い、その後も軍人・官僚として活躍します。
ちなみに、後に出てくる孫堅を登用したのは朱儁なのでした。


さて、一応曹操についても話しておきましょう。
後で、いくらでも出てきますから、今は簡単に。


曹操は西暦で言うと155年の生まれですから、黄巾の乱の当時はまだ29歳。この若さで騎都尉として兵を率いていたのですが、この時点で既に県令の経験がありました。
騎都尉は軍人の役職名で、校尉と同格(つまり鄒靖と同じ!)です。
そのうえ黄巾の乱の後には、その戦功により済南国の相(つまり実質的な郡太守!)まで昇進することになります。
前にも言いましたが、当時、中国はまだ乱世の始まりの始まりにすぎませんから、曹操のこのスピード出世は、乱世的な抜擢人事によるものなどではなく、普通に昇進した結果と考えられます。


このことからも、曹操がいかに優秀な人物であったかが分かるかと思いますし、曹操のスーパーマンぶりはググればいくらでも出てきますが、私にはもう一つ彼について強調しておきたいことがあります。
それは、曹操が評判の親孝行者だったということです。
どうです?意外でしょう。
でも親不孝者であるわけがないのです。
当時の中国で、親孝行者でないものが出世(それも驚異的なスピードでの)などできるはずがないのです。
理由は、、、もういいですね。


曹操については、今後いくらでも出てくるので、こんなところにしておいて、今日はもう一つ、銅鑼についてお話ししましょう。
この銅鑼本来は、退却の際に鳴らすものです。


太鼓で前進、銅鑼で後退です。
戦場の喧騒の中でも、ちゃんと指揮官の意図が伝わるよう、前進と後退では違う楽器を使っていたのです。
ところが作者はこの事実を知らなかったためか、攻撃の際にも「ジャーンジャーン」と銅鑼の音を表現してしまっています。
この「ジャーンジャーン」とともに攻撃を仕掛けてくる部隊という構図が、この後もずっと出てきますので、そのたびにこの話を思いだしてください(笑)


それでは今日のところはこれまで!