脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

青州城救援

みなさんこんばんは。
陳羅です。


せっかく三国志のブログを書いているので、おすすめの三国志関連メディアの広告を掲載しようと思い、アマゾンアソシエイトの申し込みをしたところ、審査にはねられてしまいました。
何がいけなかったんだろう・・・。
まだ、記事が少なすぎたかな?


では今回のあらすじです。


程遠志と鄧茂の黄巾軍を撃破した劉備たち義勇軍は、市民らの大歓迎を受けながら、幽州城に凱旋します。
しかし、戦勝を祝う宴のさなか、宴席に両肩に矢が刺さった兵士が担ぎ込まれます。
彼は青州太守からの急使でした。
青州城は黄巾軍の攻勢を受け陥落寸前で、至急の救援を求めているのでした。
劉焉は、直ちに鄒靖将軍に五千人の兵を引き連れて救援に向かうよう命じ、劉備たちの義勇軍も同行することになったのでした。


劉備たちは青州城に到着すると、特に打ち合わせもなく、例によってさっそく城を包囲する黄巾軍に対する総攻撃を開始します。
しかし、ここの黄巾軍の指揮官は、フラフラと最前線に出てきてあっさり戦死するようなうっかり者ではなかったため、義勇軍は苦戦し多くの死傷者を出しました。
劉備は、ここにきて戦争はただやみくもに突撃すれば勝てるというものではないということを悟り、初めて作戦を立てて戦うことを決意します。
はたして翌日、劉備は鄒靖将軍とともに黄巾軍をおびき出して包囲殲滅し、黄巾軍は数万人もの戦死者を出す損害を受け壊滅したのでした。


青州城に入城した劉備と鄒靖将軍に対し、青州太守は好きなだけ遊んで行ってほしいと歓迎しますが、劉備らはこれを辞退します。
そして劉備は、かつての師盧植先生のもとへ向かいます。
盧植は広宗において、五万人の兵を率いて十五万人もの黄巾軍と戦っているのでした。


では今回の解説です。
まずは、青州について。
青州は幽州の南にあり、現在の山東省に当たります。
しかし、単に青州といった場合、範囲が広くてどこを指すのかわかりませんから、末尾の地図では現在の青州市と仮定しています。
青州の中で、今後の物語で登場する有名な地名としては、平原と北海があります。
特に平原はのちに劉備が相(実質的な長官)を務める地ですので、覚えておくと良いかと思います。


続いて、劉備のかつての師盧植についてお話ししましょう。
盧植は後漢末期の儒学者であり、官僚であり、軍人でもあります。
当時は学問といえば儒学を指し、儒学を修めたものが官僚となり、また軍を率いたのでした。
後漢末期から三国時代は、中国の長い歴史の中で見れば400年にわたる壮大な乱世である魏晋南北朝時代の始まりの時期にすぎませんから、まだ平和な時代の制度が残っていたといえるでしょう。
盧植は背が高く声が大きく、すでに九江郡の太守として実績がありましたが、病気と称して官を辞してからは、故郷である涿に戻り、執筆活動や若者の教育に励んでいたのでした。
この時期に、劉備やのちに出てくる公孫瓉らの師となったのでしょう。
その後、官に復し、太守や中央の要職を歴任しますが、黄巾の乱が始まると中郎将に任命され、黄巾軍との戦いに赴くのでした。


黄巾の乱の平定後は、再び中央官界に復帰しますが董卓が台頭すると嫌気がさして逃亡し、袁紹の軍師として晩年を過ごします。
当時、涿郡出身の有名人といえば盧植だったようで、彼の死後、たまたま曹操が軍を率いて涿郡を通りかかったとき、わざわざ立ち寄ってその功績を顕彰した程です。
劉備の先生って、すごい人だったんですね。


それでは、また明日。


【参考】今回の劉備の旅(涿から青州師を経て広宗へ。歩いて20日の道のり。)

初陣

さて、いよいよ物語は三国志らしくなっていきます。


義勇軍を旗揚げした劉備らは、幽州の太守劉焉に面会します。
劉焉は義勇軍の到着に大喜びし、殺人犯である張飛の罪を許し、劉備たちを手厚くもてなしました。
そんな中、五万人もの黄巾軍が近所の山にたむろしているとの情報がもたらされ、劉焉は激怒します。
そして部下の鄒靖将軍に討伐を命じ、劉備らの義勇軍はその先陣を命じられます。

黄巾軍の陣地に接近した劉備らは簡単な打ち合わせの上、いきなり総攻撃を開始します。
黄巾軍を率いる程遠志と鄧茂は、義勇軍の貧弱な装備を侮り陣地を出て反撃を試みますが、二人ともあっさりと戦死してしまい、指揮官を失った黄巾軍は瓦解、そこへ鄒靖将軍率いる本隊の増援も加わり、数万の捕虜を得る大勝利となったのでした。


やっぱり、戦闘シーンを挟むと内容が薄っぺらくなりますね。
でも今回は、お話すべきことが沢山あります。


まずは、幽州についてです。
幽州は劉備らの故郷である涿郡を含む広域の行政区分で、遼東半島や朝鮮半島の一部までを含む地域です。
劉焉は「幽州太守」とされていますが、太守は郡の長官であって、州の長官ではありません。
州の長官は牧ですから、正しくは「幽州牧」になるはずです。

しかし、史書には劉焉が幽州牧に任命されたという記述はなく、いずれにしても創作ということになります。

この牧という役職ですが、黄巾の乱などの影響で地方の統治能力が弱体化したことを受けて、それまで置かれていた刺史に代わって置かれたものです。
格としては郡の太守と同等で、太守と同様に独自の兵力を持っていました。
ちなみに刺史は元来地方行政の監察官にすぎず、太守より格下で独自の兵力は持ちませんでしたが、牧が設置された以降は、牧と同様に長官として扱われることも多く、物語の上では牧=刺史ととらえても弊害はないと思います。
なお、刺史という言葉は日本でも使われていて、たとえば国守のことを中国風に刺史と呼んだりします。
このことからも、後年刺史=長官という用法が広がっていたことが分かりますね。

次に、劉焉という人物についてです。
この人は、前漢の皇族の末裔で、洛陽の県令を始めとして、太守、刺史などを歴任したエリート中のエリートで、最終的には益州牧になります。
この人の息子が劉璋で、後々出てきますが、それはその時にお話ししましょう。

続いて鄒靖将軍について。
まず鄒靖の役職は将軍でなく、正しくは校尉です。
校尉というのは、軍の指揮官の役職ですが、将軍よりは格下で、将軍の配下で各部隊の指揮官を務める人ですから、現代的には大佐といったところでしょうか?
現代でも中国軍や台湾軍では大佐のことを大校といいます。
なお、鄒靖は幽州牧や涿郡太守などの配下ではなく、漢の中央軍の指揮官です。
劉備らを従えていたというのは本当の様ですから、劉備を最初に登用した人物といえるでしょう。
チョイ役の割に重要な人物ですが、これ以後登場しませんので忘れて結構です。


それにしてもつい前話で、黄巾軍との戦いのため税金を搾り取られて、家の中ががらんとしているという描写があったばかりなのに、その金で宴会を開いてもてなされる義勇軍・・・。
始めて読んだ時、子供心にも違和感を覚えたのを思いだします。

乞食部隊

あるとき劉備が自宅近くで作業をしていると、またしても唐突に張飛が現れ、作業を手伝い始めます。
時期が来たらと約束していたはずですが、その日まで下男として働くと言い張ります。
困惑する劉備でしたが、さらなる面倒事が彼を襲います。
当局の捜査員が大挙して大量殺人犯である張飛を逮捕しに来たのです。
すわ、乱闘騒ぎかと緊張が走ったのもつかの間、完全武装の関羽が乱入し、事態を収拾します。
彼は卓抜した演技力と弁舌で捜査員たちを丸め込むと、最後は脅迫でもって彼らを追い返してしまいます。
事態を呑み込めない張飛に対し、劉備に仕えるため自宅を売却してはせ参じたと告げる関羽。

さらに困惑した劉備は、とりあえずお母さんに相談することにしました。
しかし、この日のことを待ちに待っていた劉備の母は、早速酒宴の支度を整え、劉備に決起を促します。
劉備、関羽、張飛の三人は、この席で義兄弟の契りを結び、決意を固めたのでした。

翌朝、たまたま通りがかった張世平とその甥の蘇双からお金と馬を借り、噂を聞きつけて集まった人々とともに義勇軍を結成した劉備は、黄巾党との戦いに向け出発したのでした。


今回のヤマ場は桃園結義の場面ですね。
もちろんこのくだりは創作によるものなのですが、私はこういったエピソードがあまり好きになれません。
つい最近出会ったばかりの三人が、意気投合して、「生まれた日は違っても、死ぬときは同じだ!」と酒の席で約束したからといって、誰がその約束に特別な意味があると思うでしょうか?
彼ら三人の絆は、一時の酒の席での約束によってできたのではなく、長い戦いの日々の中で徐々に出来上がったものであると私は信じています!
まあいずれにせよ、劉備は黄巾党の乱に臨んで、関羽、張飛らとともに決起し、これが彼の長い戦いの旅の始まりだったのです。


さて、どこの馬の骨とも知れない劉備に大金を投資した張世平と蘇双ですが、これは実在の人物です。
物語の中で語られている通り、中山国の豪商で、劉備の素質を見抜いて大金を与え、この金で劉備は仲間を集めることができたといいます。

劉備の話をもう少ししましょう。
劉備が庶民の出身ではなく、有名な学者である盧植に学び、後に武名をとどろかせる公孫瓉(サン)と友人であった話は以前にしましたが、実は彼は幼少の頃より野心が高く、大人になったら皇帝になりたいみたいなことを言っておじさんの劉子敬に叱られたことがあるほどです。
また、ファッションは派手好みで、乗馬、闘犬、音楽が趣味だったといいます。
性格は、無口で控えめ、喜怒の感情を表情に出さなかったといいますが、行動を見ると過激な復讐に走ることも多く、逆にコワいです・・・。
漫画ではやさしい好青年といった印象の劉備ですが、歴史書の記述だけ見てみるとヤクザみたいな人物であったことが分かると思います。
でも、そうでもなければ、何の足がかりもなく乱世で台頭し、最後は皇帝を名乗るほどの大成功を収めることなどできないのではないでしょうか?