脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

張飛

どうもこんにちは。
陳羅です。


今日は第三話、「張飛」です。
ようやく三国志らしくなってきます。

さて、黄巾党の陣から脱出した劉備と芙蓉姫でしたが、すぐに追っ手に追いつかれてしまいます。
あの老僧の死はなんだったのか・・・。
まさに危機一髪というところに、突然領主の家臣であった張飛が現れ、追っ手を皆殺しにします。
張飛の強さに心を打たれた劉備は、礼として伝家の名剣を張飛に譲るのでした。
その後、張飛は芙蓉姫を連れて去っていきます。
(芙蓉姫は領主の娘なので、家臣であった張飛とは、もともと知り合いだったようです。)

内容が薄い・・・。
横山三国志の特徴として、張飛や関羽が立ち回るとそれだけでコマ数を食ってしまい、内容が薄くなる
特徴があります。

では今回は張飛という人物について。
張飛は、劉備と同じ涿郡の出身で、字は益徳です。
えっ、翼徳じゃないの?という人もいるかもしれませんが、正しくは益徳です。
しかし、なぜか三国志演義では翼徳とされているのです。
理由はよくわかりませんが、今後ももろもろの事情で名前を変えられてしまっている人物が出てきますから、何らかの事情があったのでしょう。

ちなみに、字(あざな)というのは、公式のニックネームみたいなもので、今後もたびたび出てきます。
本当は本名である諱(いみな)で人を呼ぶのは当時はとても失礼なことで、たとえば「張飛殿!」とか呼びかけることは実際には絶対にありません。
仲の良い人は字で呼び、そうでもない人は多分肩書で呼んだのでしょう。
肩書のない人はどう呼んだのかよく知りません。


さらに脱線しますが、皇帝などとても偉い人の諱は、字で書くことも憚られたようで、たとえば漢朝の初代皇帝の劉邦の諱である「邦」の字は、それ以前は一般的に国を表す言葉として使われていましたが、劉邦の時代以降「国」の字に置き換えられて現代につながっているのです。


それから、本名である諱を避ける風習は実はかつての日本にもあり、有名な話では西郷隆盛の本名にまつわるエピソードがあります。
明治維新の立役者である西郷隆盛ですが、普段は通称の吉之助と呼ばれていました。
あるとき、西郷の名前を友人が誤って彼の父の名で届け出てしまったことがきっかけで、隆盛が彼の名になったのですが、正しくは武雄でした。
友人すら、本名を知らなかったのですね。


張飛に戻りましょう。
張飛について、もう一つ言っておかなければならないことが、彼が庶民の出身であるということです。
「え?劉備も庶民出身でしょ?」という声が聞こえてきそうですが、劉備は庶民ではありません。(多分)
劉備は若いころ、有名な学者であり後に黄巾党との戦いで将として軍を率いた盧植を師として学問を学び、そのころの友人には後に漢の名門である袁術と組んで天下を伺うほどの勢いを持った公孫瓚(サン)がいたというほどですから、父が早くに亡くなって貧乏していたとはいえ、庶民ではなかったのです。
当時の中国では、庶人と士大夫との間に厳然たる身分差別があり、張飛は一生その差別に苦しみます。

ちょっと想像してみましょう。
劉備は後年、益州(今の四川省)に依って漢の皇帝を名乗ります。
張飛は車騎将軍・司隷校尉の地位に昇りました。
車騎将軍は軍人としての最高位で、司隷校尉は洛陽周辺の知事のような役割で、劉備は洛陽を領有していませんから名誉職ですが、それこそ臣下の中で最高級の待遇だったのです。

おまけに、娘が劉備の長男である劉禅と結婚し、外戚にもなりました。

それでも差別はやまないのです。
劉備の臣下には、荊州(今の湖北省)や益州出身の学者(=士大夫)が名を連ねており、彼らの中には劉巴のように公然と差別的な言動をする人もいました。

自分を差別する士大夫出身の群臣たち。

彼らを重用する士大夫出身の劉備。
そしてそんな群臣たちより上位に昇った庶人出身の自分。


東大を出た親友と一緒に会社を立ち上げて大成功したけれど、自分以外の経営陣や管理職はみんな有名大卒で、話も合わないし、何か見下されている感じがする。
現代的に言うとそんな感じでしょうか。
身分差別は自身の努力ではどうにもならない点で、さらに質が悪ですが。。。


まだまだ、書きたいことはたくさんありますが、今日はここまで。

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