脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

勅使

みなさんこんばんは。
陳羅です。


さて、私は、家にあるカジュアルワイド版の横山三国志を読みながら、このブログを書いているのですが、今回でついに1巻の最終話です。

三国志 第1巻 (希望コミックス カジュアルワイド)
三国志 第1巻 (希望コミックス カジュアルワイド)
著者:横山 光輝
出版社:潮出版社
カテゴリー:本

これでようやく、全25巻の第1巻・・・。
先は・・・、長い・・・。


まあ、気を取り直して、あらすじへと参りましょう。


安喜県の警察署長に任ぜられた劉備でしたが、赴任すると精力的に業務にあたり、4カ月がたった今では強盗とやくざは影をひそめるようになりました。
そんな折、劉備の仕事ぶりを調査するため、都から監察官である督郵がやってきます。
劉備は精一杯の料理(壺に入った何かと、どんぶり山盛りいっぱいの丸い何かと、コップに入った何か、、、以上。)で督郵をもてなしましたが、督郵は満足するどころか、激怒してちゃぶ台をひっくり返し、劉備を罵倒します。
何と劉備が出した料理は、都では豚と馬の飼料として用いられる物だったのでした。
劉備が罵倒されたことに逆ギレした張飛は、あろうことか刃物を持ち出します。
すわ乱闘騒ぎかというところ、関羽が止めに入り、劉備が督郵に詫びを入れてその場を収めました。
しかし、その夜、怒りの収まらない張飛は、居酒屋へ繰り出し、ヤケ酒をあおるのでした。


翌日、劉備が督郵の随員に「正しい勅使のもてなし方」を教えてもらおうと、督郵らの宿舎を訪ねると、督郵は女の子たちとお酒を飲んだり、鬼ごっこをしたりして遊んでいました。
劉備は呆れましたが、その隙に随員の一人をつかまえて、賄賂が必要だということを聞き出します。
しかし、県の財政は厳しく、賄賂を贈るほどのお金は用意できないのでした。
(随員はもっと税金を搾り取れと言っていましたが、そもそも警察署長に税金を搾り取る権限なんてないのでは?)


さて、劉備が賄賂を贈らないことを悟った督郵は、劉備の部下の一人を宿舎に呼び出して剣と槍のようなもので脅迫し、劉備の罪を告発する文書にサインさせて、それを都に送付します。
その噂を聞きつけた張飛は激怒し、門を蹴破って宿舎に乗りこむと、剣と槍で武装した護衛兵らを素手で撃破し、督郵をとらえて縛り上げると、演説を聞かせて棒で殴り始めました。
しかし、しばらくすると劉備と関羽が現れてやめるよう命じます。
劉備ははじめ、督郵を縛る縄をほどこうとしましたが、関羽に説得されて翻意し、ほどくのをやめて馬で走り去ったのでした。


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実はこの話、私は三国志の中でも特に好きな話の一つです。
三国志(演義)らしい、胸のすくような勧善懲悪のエピソードですね。
しかし、どうしても語らねばならないことがあります。


物語の三国志(演義)では、怪傑張飛の性格を印象付ける序盤の重要なエピソードですが、実際には督郵を殴ったのは張飛ではなく、劉備なのです。
それも200回も・・・。


しかもその動機は、公務で安喜県を訪れた督郵が、劉備との面会を断ったためといいます。


その後、劉備は県尉の身分を示す印綬を督郵の首にかけると、物語と同様逃げ去ったといいますから、もともと待遇に不満があったとも考えられますが、それにしてもかわいそうなのは督郵です。
何も、物語の中のように賄賂を要求したわけでも、劉備の罪をでっち上げて劉備を追い詰めたわけでもなく、ただ何らかの理由で劉備との面会を断っただけです。
劉備は普段喜怒を表にあらわさない性格だったといいますから、こんな小さなことで人を縛って棒で殴り始めたら、督郵はもちろん、周りで見ていた人達もさぞ怖かったでしょう。


次は、いつ、だれが殴られるんだろう・・・。


きっと、張飛や関羽もあまりの恐怖に劉備を止めることができず、ただ督郵が殴られた回数を正確にカウントすることしかできなかったんだと思います。
そうでなければ、劉備は200回(3秒に1回のペースで休まず殴り続けたとしても10分かかる)も殴ることはできなかっただろうし、その正確な回数が史書に残ることもなかったでしょう。


では、今日はちょっと短いですが、これまでとします。
あ、ちなみにどうでもいいことかもしれませんが、今回殴られた督郵は、物語では勅使(=国家公務員)とされていますが、実際には郡の役人(=地方公務員)だったようです。

まあ、だからといって殴っていい理由は、全然ありませんが・・・。

十常侍

こんばんは!
陳羅です。


今夜も早速あらすじを・・・。


劉備が張宝を撃破したという知らせは朱儁のもとにももたらされます。
(でも、幕僚が報告している内容をよく読んでみると「劉備殿は・・・奇襲しました・・・そして(黄巾軍は)山火事に巻き込まれて全滅したそうです」みたいなことを言ってます。劉備は奇襲したけど、全滅したのは山火事のせい。恐るべし山火事・・・。)


朱儁が驚いているところに、曲陽から「董卓と皇甫嵩が黄巾軍を全滅させた」との連絡が入ります。
それを聞いた朱儁はタイミングよく劉備に出会えた幸運に感謝するのでした。


その後、司令部で催された酒宴の席で、朱儁は官軍の大勝利を宣言し、劉備は戦争の終結と平和の到来を喜ぶのでした。


翌日、都(洛陽?)に凱旋した官軍の中には、董卓、皇甫嵩(あ!絵あった!)、朱儁、曹操らの顔が見られましたが、義勇軍である劉備らは場内に入ることはできず、城壁の外から遠く花火を眺めることしかできないのでした。


さて、劉備が沙汰を待っていると、かつて盧植の部下であった張鈞が馬車で通りかかります。
そして劉備に何の沙汰もないことを訝った張鈞は、皇帝に拝謁すると、十常侍の排除と劉備の登用を進言します。
しかし、そこへ十常侍が現れ、張鈞を連れ去ると、ナイフのようなもので腹を刺し、殺してしまいました。


張鈞の言葉が気になった皇帝は十常侍に劉備に関する再調査を命じます。
その結果、劉備のもとに勅使が訪れ、彼を安喜県の警察署長に任命します。
命を受けた劉備は義勇軍を解散すると、任地へと赴くのでした。


※今回の劉備の旅(潁川から洛陽へは歩いて5日ほど。曲陽からの急使は普通に歩いて17日ほどかかる距離をやってきた。)


とうとう黄巾の乱は終結しましたが、帝国の行く末は暗いです。
物語で登場する十常侍は実在の集団で、張讓、趙忠を中心とした12人に宦官達です。

彼らは中常侍という役職を持ち、皇帝の身の回りの世話をするのが本来の任務でしたが、常に皇帝のそばで仕えたため、次第に権力を持ったのでした。
元はそうではなかったようですが、この時代、中常侍は宦官に占められていました。
これは後宮の女性達(皇帝の側室)との間で間違いを起こさないためですが、皇帝の側からすると、子孫を残さない宦官に権力を与えても、その権力は一代限りという安心感からか、次第に彼らの権力が高まっていったようです。

他の時代を見てみても、宦官が政治を乱す例は多々ありますが、逆に誠心誠意主君に尽くす忠義の宦官も多く、宦官=悪という図式の成立には、人々の差別的な意識も影響していると私は考えています。
何しろ、当時(他の時代にも)皇帝に仕えた宦官は数千人に及んだのですから、良い人もいれば悪い奴もいたわけです。


さて、ここまでの話は、大部分が吉川栄治の創作なのですが、劉備が義勇軍を率いて黄巾党と戦い、その功績から安喜県の尉(警察署長)に任命されたのは史実の様です。
ただ、涿郡のある幽州は黄巾の乱の最前線というわけではありませんので、ここからは私の想像ですが、冀州方面の司令官であった盧植、董卓、皇甫嵩のいずれかが、幽州への黄巾党の浸透を防ぐことを目的に鄒靖の部隊を派遣し、そこで劉備らが現地採用されたのではないでしょうか。

安喜県は北京の南南西150キロほどのところで、劉備の故郷涿県からは歩いて2日強とほど近いところにありますが、こちらは冀州になり、より黄巾党の本拠地に近いです。
前任の県尉は黄巾の乱の影響で罷免されたか殺されたというのは、考えすぎでしょうか?


では、今日はここまで。。。

鉄門峡の死闘

みなさんこんばんは。
陳羅です。


今日ももう遅いですので、前置きはなしに早速あらすじを・・・。


黄巾軍と官軍の戦いは未だ終わらぬ中、あるとき劉備は何かの気まぐれか、あるいはかつての恨みを忘れたのか、あの朱儁将軍のもとへ義勇軍とともに訪れます。
すると、意外なことに朱儁将軍も彼らを手厚くもてなします。
長く厳しい戦闘の日々が、彼らの間の苦い思い出を美化していったのでしょうか?
そして翌日、朱儁将軍は、劉備たちの義勇軍に新たな任務を与えるのでした。


その任務は黄巾党の指導者である張角の弟で、地公将軍を名乗る張宝が率いる部隊への攻撃でした。
朱儁は配下の部隊から3000人の官軍兵士を劉備の配下に加え、彼らを黄巾軍が籠る鉄門峡へと送り出します。


ところが劉備たちが鉄門峡へ向かう途中、朱儁の兵たちが動揺し始めました。
張宝の妖術を恐れる彼らを、張飛は巧みな弁舌と脅迫により説得し、前線へと急ぎます。
そして、いよいよ鉄門峡を前にすると、劉備は朱儁より派遣された幕僚たちの自重を求める意見を無視し、早速総攻撃を開始したのでした。
ところが、突撃する劉備軍の前に張宝が一人で立ちはだかります。
すると、その背後から強風とともに石と矢が襲い掛かり、劉備軍は甚大な損害を受けて退却を余儀なくされました。
困り果てた劉備に対し、正面からの突撃では効果を上げられないことを悟った張飛は、敵の背後に対する攻撃を進言します。
劉備はこの作戦を採用し、断崖絶壁を乗り越えて黄巾軍の背後に侵入すると、放火を行うとともに、銅鑼と太鼓を同時に鳴らすことで黄巾軍を大混乱させることに成功します。
そして、その混乱の最中、劉備は自らのコンパクト弓矢で張宝を射殺し、勝利を宣言します。
その後、彼らが放火した火は燃え広がって大規模な山火事に発展し、少なくとも数千人もの焼死者を出す大惨事を引き起こしたのでした。


さて、今日は張宝について。
張宝は黄巾党の張三兄弟の次男(かどうかわかりませんが、真ん中)で、実は黄巾の乱では病身の兄張角に代わり実質的に戦争を指導していました。
しかし、兄を病気で、弟を戦争で失ったあと、自らも皇甫嵩率いる官軍に撃破され、命を落とします。
以上。
まあ、反乱軍の指導者、それも総大将ではなく副将の扱いなど、そんなもんです。
ちなみに、本場中国の三国志演義でも彼が妖術を使うくだりが出てきますが、それを破るのは張飛や劉備の知略ではなく朱儁の策で、その死も劉備による狙撃ではなく部下の裏切りとされています。
いずれにせよ、これらは創作によるもので、本当の功績は皇甫嵩の物なのですが・・・。



さて、黄巾の乱も終わりに近づいてきましたので、官軍のもう一人の将軍皇甫嵩について。
皇甫嵩は朱儁、盧植とともに、黄巾の乱で官軍を率いた将軍ですが、彼こそがこの戦争を勝利に導いた立役者であったといっても過言ではありません。


まず、戦争が始まると朝廷において、当時朝廷を牛耳っていた宦官達と対立して官界を追放されていた者たち(清流派と自称していた)を呼び戻すことと、皇室財産を放出して戦費に当てることを進言します。
そして、自ら兵を率いて黄巾軍との戦いに臨むと、波才、卜己、張梁、張宝と次々に黄巾軍の将を打ち破っていきました。

まさに最強。
しかし、これだけの活躍がありながら、三国志演義では活躍の描写がなく、横山三国志では絵すら描いてもらえないという朱儁以下の扱いです。
まあ、いろいろと理由はあると思いますが、彼は名前が特徴的なので、あまり活躍させると目立ちすぎ、195年に死ぬという都合上、いろいろと文学的に不具合が大きかったのだと私は睨んでいます。


さて、話に出てきたので清流派と宦官の対立についても語りたい所ですが、もう時間も時間なのでこれまでとします。
今日もありがとうございました。