脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

初陣

さて、いよいよ物語は三国志らしくなっていきます。


義勇軍を旗揚げした劉備らは、幽州の太守劉焉に面会します。
劉焉は義勇軍の到着に大喜びし、殺人犯である張飛の罪を許し、劉備たちを手厚くもてなしました。
そんな中、五万人もの黄巾軍が近所の山にたむろしているとの情報がもたらされ、劉焉は激怒します。
そして部下の鄒靖将軍に討伐を命じ、劉備らの義勇軍はその先陣を命じられます。

黄巾軍の陣地に接近した劉備らは簡単な打ち合わせの上、いきなり総攻撃を開始します。
黄巾軍を率いる程遠志と鄧茂は、義勇軍の貧弱な装備を侮り陣地を出て反撃を試みますが、二人ともあっさりと戦死してしまい、指揮官を失った黄巾軍は瓦解、そこへ鄒靖将軍率いる本隊の増援も加わり、数万の捕虜を得る大勝利となったのでした。


やっぱり、戦闘シーンを挟むと内容が薄っぺらくなりますね。
でも今回は、お話すべきことが沢山あります。


まずは、幽州についてです。
幽州は劉備らの故郷である涿郡を含む広域の行政区分で、遼東半島や朝鮮半島の一部までを含む地域です。
劉焉は「幽州太守」とされていますが、太守は郡の長官であって、州の長官ではありません。
州の長官は牧ですから、正しくは「幽州牧」になるはずです。

しかし、史書には劉焉が幽州牧に任命されたという記述はなく、いずれにしても創作ということになります。

この牧という役職ですが、黄巾の乱などの影響で地方の統治能力が弱体化したことを受けて、それまで置かれていた刺史に代わって置かれたものです。
格としては郡の太守と同等で、太守と同様に独自の兵力を持っていました。
ちなみに刺史は元来地方行政の監察官にすぎず、太守より格下で独自の兵力は持ちませんでしたが、牧が設置された以降は、牧と同様に長官として扱われることも多く、物語の上では牧=刺史ととらえても弊害はないと思います。
なお、刺史という言葉は日本でも使われていて、たとえば国守のことを中国風に刺史と呼んだりします。
このことからも、後年刺史=長官という用法が広がっていたことが分かりますね。

次に、劉焉という人物についてです。
この人は、前漢の皇族の末裔で、洛陽の県令を始めとして、太守、刺史などを歴任したエリート中のエリートで、最終的には益州牧になります。
この人の息子が劉璋で、後々出てきますが、それはその時にお話ししましょう。

続いて鄒靖将軍について。
まず鄒靖の役職は将軍でなく、正しくは校尉です。
校尉というのは、軍の指揮官の役職ですが、将軍よりは格下で、将軍の配下で各部隊の指揮官を務める人ですから、現代的には大佐といったところでしょうか?
現代でも中国軍や台湾軍では大佐のことを大校といいます。
なお、鄒靖は幽州牧や涿郡太守などの配下ではなく、漢の中央軍の指揮官です。
劉備らを従えていたというのは本当の様ですから、劉備を最初に登用した人物といえるでしょう。
チョイ役の割に重要な人物ですが、これ以後登場しませんので忘れて結構です。


それにしてもつい前話で、黄巾軍との戦いのため税金を搾り取られて、家の中ががらんとしているという描写があったばかりなのに、その金で宴会を開いてもてなされる義勇軍・・・。
始めて読んだ時、子供心にも違和感を覚えたのを思いだします。

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