脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

鉄門峡の死闘

みなさんこんばんは。
陳羅です。


今日ももう遅いですので、前置きはなしに早速あらすじを・・・。


黄巾軍と官軍の戦いは未だ終わらぬ中、あるとき劉備は何かの気まぐれか、あるいはかつての恨みを忘れたのか、あの朱儁将軍のもとへ義勇軍とともに訪れます。
すると、意外なことに朱儁将軍も彼らを手厚くもてなします。
長く厳しい戦闘の日々が、彼らの間の苦い思い出を美化していったのでしょうか?
そして翌日、朱儁将軍は、劉備たちの義勇軍に新たな任務を与えるのでした。


その任務は黄巾党の指導者である張角の弟で、地公将軍を名乗る張宝が率いる部隊への攻撃でした。
朱儁は配下の部隊から3000人の官軍兵士を劉備の配下に加え、彼らを黄巾軍が籠る鉄門峡へと送り出します。


ところが劉備たちが鉄門峡へ向かう途中、朱儁の兵たちが動揺し始めました。
張宝の妖術を恐れる彼らを、張飛は巧みな弁舌と脅迫により説得し、前線へと急ぎます。
そして、いよいよ鉄門峡を前にすると、劉備は朱儁より派遣された幕僚たちの自重を求める意見を無視し、早速総攻撃を開始したのでした。
ところが、突撃する劉備軍の前に張宝が一人で立ちはだかります。
すると、その背後から強風とともに石と矢が襲い掛かり、劉備軍は甚大な損害を受けて退却を余儀なくされました。
困り果てた劉備に対し、正面からの突撃では効果を上げられないことを悟った張飛は、敵の背後に対する攻撃を進言します。
劉備はこの作戦を採用し、断崖絶壁を乗り越えて黄巾軍の背後に侵入すると、放火を行うとともに、銅鑼と太鼓を同時に鳴らすことで黄巾軍を大混乱させることに成功します。
そして、その混乱の最中、劉備は自らのコンパクト弓矢で張宝を射殺し、勝利を宣言します。
その後、彼らが放火した火は燃え広がって大規模な山火事に発展し、少なくとも数千人もの焼死者を出す大惨事を引き起こしたのでした。


さて、今日は張宝について。
張宝は黄巾党の張三兄弟の次男(かどうかわかりませんが、真ん中)で、実は黄巾の乱では病身の兄張角に代わり実質的に戦争を指導していました。
しかし、兄を病気で、弟を戦争で失ったあと、自らも皇甫嵩率いる官軍に撃破され、命を落とします。
以上。
まあ、反乱軍の指導者、それも総大将ではなく副将の扱いなど、そんなもんです。
ちなみに、本場中国の三国志演義でも彼が妖術を使うくだりが出てきますが、それを破るのは張飛や劉備の知略ではなく朱儁の策で、その死も劉備による狙撃ではなく部下の裏切りとされています。
いずれにせよ、これらは創作によるもので、本当の功績は皇甫嵩の物なのですが・・・。



さて、黄巾の乱も終わりに近づいてきましたので、官軍のもう一人の将軍皇甫嵩について。
皇甫嵩は朱儁、盧植とともに、黄巾の乱で官軍を率いた将軍ですが、彼こそがこの戦争を勝利に導いた立役者であったといっても過言ではありません。


まず、戦争が始まると朝廷において、当時朝廷を牛耳っていた宦官達と対立して官界を追放されていた者たち(清流派と自称していた)を呼び戻すことと、皇室財産を放出して戦費に当てることを進言します。
そして、自ら兵を率いて黄巾軍との戦いに臨むと、波才、卜己、張梁、張宝と次々に黄巾軍の将を打ち破っていきました。

まさに最強。
しかし、これだけの活躍がありながら、三国志演義では活躍の描写がなく、横山三国志では絵すら描いてもらえないという朱儁以下の扱いです。
まあ、いろいろと理由はあると思いますが、彼は名前が特徴的なので、あまり活躍させると目立ちすぎ、195年に死ぬという都合上、いろいろと文学的に不具合が大きかったのだと私は睨んでいます。


さて、話に出てきたので清流派と宦官の対立についても語りたい所ですが、もう時間も時間なのでこれまでとします。
今日もありがとうございました。


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