脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

火攻めの計

こんばんは。
三国志大好きおじさんの陳羅です。


それでは今日もあらすじから。


場面は広宗の官軍司令部に移ります。
盧植が三人の軍人達に戦況の説明をしていると、一人の兵士が入ってきて劉備の来訪を伝えます。
日々の忙しさのため劉備のことなどすっかり忘れていた盧植は、彼らを邪険に追い払おうとしますが、兵士にしつこく食い下がられて翻意し、会ってみることにします。
しかし劉備を一目見るや、彼がかつて教え子であった劉少年であることを悟り、驚喜するのでした。
こうして盧植の配下となり、黄巾軍との戦いを再開した劉備たちでしたが、黄巾軍は強く、また味方の官軍の士気は低調で、義勇兵の間にも疲れが広がっていました。
このような状況を憂えた張飛は、劉備に不満を訴えますが、関羽の巧みな対応により聞き流されてしまいます。
ちょうどそこへ、盧植が現れ、劉備に潁川へ向かい、皇甫嵩・朱雋の両将軍を救援するよう命じます。


広宗の現場に不満を持っていた劉備達は、内心大喜びで潁川へと向かったのでした。


潁川に到着した劉備は将軍の朱雋の閲兵を受けますが、兵士たちの貧弱な装備に朱雋は不満を抱きます。
しかし、なぜか朱雋は彼らをもっとも強力な敵の前面に配置したのでした。


配置についた劉備でしたが、早速その夜に総攻撃を敢行します。
彼らは敵陣に接近すると、たいまつを投げ込んで放火を行ったうえ、銅鑼を打ち鳴らしながら突撃するという意表を突いた行動をとります。
黄巾軍はなぜか油断していたうえ、劉備の奇抜な行動のためか大混乱をおこし、なぜか偶然現れた曹操率いる五千人の騎兵部隊にほとんどを討ち果たされてしまいます。
劉備と曹操は戦闘の最中に遭遇してともに勝どきを上げ、お互いの健闘を祈りつつ別れたのでした。


今回は、まず地図から。。。

【参考】今回の劉備の旅(広宗から潁川へ。徒歩12日ほどの道のり)


潁川というのは本来川の名前ですが、おそらく現在の臨潁県あたりのことと思われます。
だいぶ南にきましたね。当時の首都洛陽より南です。
あ、曹操が「洛陽から南下してきた」といっていましたから、あたり前ですね。。。


さて、今日は、まず嫌味な将軍、朱雋について。

マンガでは朱雋で統一されていますが、正しくは朱儁ですね。。。
そして、この嫌味な朱儁像というのは、実は例によって吉川栄治による創作で、歴史書である三国志はもちろん、本場中国の三国志演義においても立派な人物として描かれているのです。
主人公を引き立たせるためとは言え、劉備の師である盧植は立派な人物として描きながら、同じように頑張って戦った朱儁をこんな扱いにするとはひどいですね。
まあ、出番すらない皇甫嵩よりましかもしれませんが・・・。


朱儁は、楊州(現在の江蘇省。南京を含む地域)の出身で、劉備と同様父を早くに亡くし、母が内職をしていたといいます。
そして、親孝行者として評判だったためか、県長(小さい県の長官。県令が置かれない県に置かれた)によって推薦されて郡の役人として働き、徐々に出世していきます。
前にも言いましたが、当時は学問といえば儒学でしたから、親孝行というのは極めて重要で、それだけで登用の理由になりました(ただし士大夫に限る・・・。)
やがて、反乱が長引いていた交州(中国の最南部で一部は現在ベトナム領となっている)の刺史に抜擢され、軍を率いて反乱を鎮圧することに成功します。(あれ?刺史なのに軍を率いてますね・・・。)
これが178年、すなわち黄巾の乱が発生する6年前ですね。
劉備や盧植と違い、活躍の場は南の方が多かったようです。
黄巾の乱では、やはり中郎将として軍を率いて戦い、その後も軍人・官僚として活躍します。
ちなみに、後に出てくる孫堅を登用したのは朱儁なのでした。


さて、一応曹操についても話しておきましょう。
後で、いくらでも出てきますから、今は簡単に。


曹操は西暦で言うと155年の生まれですから、黄巾の乱の当時はまだ29歳。この若さで騎都尉として兵を率いていたのですが、この時点で既に県令の経験がありました。
騎都尉は軍人の役職名で、校尉と同格(つまり鄒靖と同じ!)です。
そのうえ黄巾の乱の後には、その戦功により済南国の相(つまり実質的な郡太守!)まで昇進することになります。
前にも言いましたが、当時、中国はまだ乱世の始まりの始まりにすぎませんから、曹操のこのスピード出世は、乱世的な抜擢人事によるものなどではなく、普通に昇進した結果と考えられます。


このことからも、曹操がいかに優秀な人物であったかが分かるかと思いますし、曹操のスーパーマンぶりはググればいくらでも出てきますが、私にはもう一つ彼について強調しておきたいことがあります。
それは、曹操が評判の親孝行者だったということです。
どうです?意外でしょう。
でも親不孝者であるわけがないのです。
当時の中国で、親孝行者でないものが出世(それも驚異的なスピードでの)などできるはずがないのです。
理由は、、、もういいですね。


曹操については、今後いくらでも出てくるので、こんなところにしておいて、今日はもう一つ、銅鑼についてお話ししましょう。
この銅鑼本来は、退却の際に鳴らすものです。


太鼓で前進、銅鑼で後退です。
戦場の喧騒の中でも、ちゃんと指揮官の意図が伝わるよう、前進と後退では違う楽器を使っていたのです。
ところが作者はこの事実を知らなかったためか、攻撃の際にも「ジャーンジャーン」と銅鑼の音を表現してしまっています。
この「ジャーンジャーン」とともに攻撃を仕掛けてくる部隊という構図が、この後もずっと出てきますので、そのたびにこの話を思いだしてください(笑)


それでは今日のところはこれまで!

×

非ログインユーザーとして返信する