脱線三国志

横山三国志のあらすじに沿いつつ、脱線しまくりながら三国志を解説します。

放浪の旅

みなさんこんばんは。
陳羅です。


さて今回から、ワイド版の第二巻に入ります。
うーむなぜか巻頭の登場人物紹介に朱儁が出てる。
もう、登場しないはずなのに・・・。


では、あらすじに進みましょう。


仕事も部下も守るべき市民たちもすべて捨てて、荒野を逃げ回る劉備たちですが、川からずいぶん離れたところでバーベキューを楽しんでいるところ、ついに定州の兵に追いつかれてしまいました。
幸運なことにこの追手はとても弱かったので、関羽と張飛が素手で撃退しましたが、いつまでもバーベキューばかりしている場合ではありません。
そこで、彼らは張飛の知り合いの劉恢の家にかくまってもらうことにしました。
そこには20人から30人もの浪人がごろごろしているといいます。
彼らに密告とかされないでしょうか?
私ならちょっと心配です。


しかしそこで劉備は意外な再会をします。
何と劉恢の家には、芙蓉姫がいたのです。
二人は再会を喜び、みんなには内緒でデートを繰り返します。
実は、張飛にはばれていましたが、張飛は大人な対応で、見てみぬふりをし、関羽にも教えませんでした。


しかし、あるとき、異常なまでに巨大なスーパームーンの下でデートしているところを、関羽に目撃されてしまいます。
関羽は二人が付き合っていることを知ると激怒し、二人の仲を裂こうとします。

ちょうどその時、劉恢の家が定州太守らの宿舎に充てられることになったという情報が入りました。
後ろ髪をひかれる思いで劉恢の家を後にした傷心の劉備は、張飛、関羽とも別れてひとり実家に帰ります。
しかし、母は、何の功績もあげずに帰ってきた劉備を対し厳しく諭すと、家から追い出してしまうのでした。


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張飛、いいやつですね。
それに対して、関羽はひどい奴です。
誰か彼に共感する人はいるんでしょうか?


前にも言いましたが、芙蓉姫の存在自体が吉川英治による創作なのですが、原作の小説でもこんな話になっているのでしょうか?
それとも、横山光輝による漫画化に際し、このようになってしまったのでしょうか?
(横山氏は、当初は子供向けに描いていた旨発言していますから、もしかするとそうかも。)
実は私は吉川三国志の原作を読んだことがないので、ちょっとわかりません。
今度、読んでみようかな。


ちなみにこの吉川三国志、執筆された期間は昭和14年から18年ですから、戦争真っ最中です。
そんな時代背景も、この作品に影響を与えているかもしれません。
「大事を成そうとするものが、婦女子に心奪われるとは怪しからん。」みたいなね。
戦争の真っただ中にあって熱狂していた当時の人達向けの作品を、部外者であるわれわれ未来人が読んで不自然に思うのも無理はないのかもしれないですね。


そういえば作中で張飛が「恋愛経験がない」と言っていましたね。
張飛っていくつなんでしょうか?


史実でも、物語の中でも、張飛と関羽の年齢については、はっきり書かれていません。
ただ、史書の方には関羽の数歳年下との記述があります。
でも、他の人との(劉備とも)年齢差については分かりませんから、決め手になりません。
黄巾の乱が発生したのは184年で、張飛はこの時に劉備の護衛を務めたとされていますから、少なくとも大人に交じって走り回れる年齢ではあったのでしょう。
兄のように慕っていた関羽にくっついてきて、マスコット的に護衛を名乗っていたと想像することもできますから、十代前半でないことを断定することもできません。
もし184年に10歳なら、174年生まれですね。


では没年はどうでしょう。
これははっきりしていて、西暦221年です。
張飛はこの時まだ現役で、軍を率いて戦に向かおうとしていましたので、70歳以下でしょう。
とすると、151年以降の生まれで、黄巾の乱発生当時33歳以下。


また、関羽の没年は張飛の死の前年の220年で、やはり現役で兵を率いていましたので、彼より数歳年下なら、もう1~2年下に絞り込んでもよいでしょう。


では、張飛が初めて責任ある仕事を任されたのは、いつでしょう。
それは、主である劉備が平原国の相に任命された191年から193年のことで、この時に別部司馬という役職を与えられています。
当時の軍隊の編成は、将軍が率いる軍の配下に、複数の部が置かれます。
「部隊」という言葉の語源ですね。
そしてこの部の下には、複数の曲が置かれました。
この部の長が校尉で、曲の長が司馬です。
「別部司馬」は「(校尉の配下ではなく)別の部を率いる司馬」ということですから、その中間ぐらいの立場でしょう。


以前に「校尉は大佐ぐらいか?」と話しましたが、そうだとすると、別部司馬が中佐で、司馬が少佐でしょうか。
会社で言えば、校尉が部長で司馬が課長。別部司馬はその中間ぐらいといったところでしょう。


もし、174年生まれ説をとれば、このときわずかに18歳で、いくら少年の頃から戦場を駆け回っていたとしても、ちょっと無理があるように思えます。
なので、もう2年上に絞り込みましょう。


153年~172年の生まれで、黄巾の乱当時12歳から31歳。
もう少し絞り込みたい所ですが、他には何かないでしょうか・・・。


結婚の年齢はどうでしょうか。
張飛の結婚は遅くとも200年で、当時13歳か14歳だった、夏候氏(名は不明。わからない。)を妻としています。
「犯罪だ!」という声が聞こえてきそうですが、この当時すでに劉備と曹操は対立していますので、もしかすると年齢に関係なく犯罪かもしれません・・・。
なぜなら、夏候家は曹操のお父さんの実家なのですから。
(※追記:拉致してきたという説あり)


複雑だ・・・。
ちなみに、張飛と夏候氏の娘(二人いて二人とも)が、劉備の息子で蜀漢の二代目皇帝である劉禅の妻になるわけです。


さて、200年当時、13歳か14歳の夏候氏と結婚した張飛の推定年齢は28歳から47歳・・・。
他にもいろいろ調べてみましたが、これ以上絞り込む情報がありませんでした。
だから、想像するしかありません。
どうでしょう、14歳の女の子と結婚する40近い(またはそれ以上の)おっさんが張飛。。。
それでいいんですか?
171年生まれの29歳ってことにしときませんか?


それだと、13歳の時に初めて戦場に出て、21歳の時には早くも自分の部隊を任された、こと軍事に関しては曹操以上の天才ってことになりますが、前にも記したとおり敵方の参謀や将軍である程昱や周瑜に絶賛されるほどの武勇を誇る張飛ですから、そのぐらいありってことにしといてください・・・。


全然説得力がなくてごめんなさい。
ただ、私の中の張飛のイメージは、マンガで登場するひげ面の張飛よりは相当若いってことを強調させていただきたい。(だからなんだって感じですが・・・。)


では、今日はここまでで。。。

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